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みやにしいづみの
アトリエ
up2024/03/30
story1 (2010.5.20up)
●函館物語
神さまは見ていました。
マムがまだ新人マムだった頃、3週間ほど函館に暮らした時のことを。
結婚し山形から函館に移り住んだマムのオネエが、初めての出産をしたので、マムは産後のお手伝いに行きました。
山形の実家のママが休めない仕事を持っていたので、みんなで相談して、マムが1歳10か月のハナを連れて東京から出かけたのです。
函館の四月はまだ寒く、下旬になっても道路には雪がありました。
お手伝いさんのマムの仕事は、のんびり家事をして、夕食を作ることでした。
ハナといっしょに自転車で自由市場へ出かけ、新鮮な海の物や食料品を買いました。
マムは自転車に乗りながら、呼吸の仕方までが、東京にいる時とは違うような気がしました。
マムはハナを前の椅子に乗せて、時々青柳町のあたりまで自転車を走らせ、坂の上から入江の海を見つめました。
きれい・・とマムが言うと、ハナはうなづいて笑いました。
啄木が住んでいたという青柳町は函館山のふもとにあり、そのまま坂を下ると市電が走る道と交差し、そのまま行くと海がありました。
坂の上から見下ろすと、市電が通り過ぎる風景の上に海の風景が重なり、何度見ても何分いても新鮮でした。
マムは、自分がそこに居ることが不思議でなりませんでした。
自分の人生とは無関係だった北海道の小さな港町に、幼な子を連れて自分がいる・・
もしかしたら同じ東北出身の啄木も、同じ場所で同じことを思ったかもしれません。
マムは、まるで空の上から若い啄木父子を見つめている神さまのような気持ちになり、同じ場所に立つ自分たちの姿が重なりました。
与えられなければ一生無関係だったかもしれない、知っていて知らない場所でした。
マムが19歳で胃潰瘍になり一か月入院した時、小学校で四年間担任だった大好きな先生が、啄木の詩集を持ってお見舞いに来てくださいました。
マムは小学生の頃からたくさん詩を書いていて、先生はそれを良くご存知でしたから、その頃のマムにちょうど良い詩集を選んでプレゼントしてくださったのです。
マムはうれしくて、病院のベッドで、宝の箱を開くように読み始めました。
マムは、最後の解説や年譜を読み、啄木という人の人生を初めて知り、悲しくてたまらなくなりました。
妻の節子がかわいそうで、マムはお布団をかぶって泣きました。
魅力的だったタクボクという名前が突然輝きを失い、彼の深くて切実な言葉が、どれもニセモノのように思えてきました。
文学家や芸術家の中には、貧しい生活を乗り越えて創作を続け、努力して自分の人生を全うした人がたくさんいます。
マムには、啄木が乗り越えようとせず努力もせず、自分の創作のために家族を犠牲にしたとしか思えませんでした。
オネエがマムに、青柳町に啄木の妻が通った質屋さんを改造して作った喫茶店があるから行ってみるといいよと言った時、節子がかわいそうだから行かないと、マムは本気で答えました。
啄木が函館に住んだのは、長女が生まれた翌年から一年ほどと言われています。
その後啄木は道内を転々とし、家族は函館に置いてきぼりでした。
マムは函館にいる間、青柳町の喫茶店の横を何度も通り過ぎただけで、啄木に関係のある場所には一度も行きませんでした。
神さまは知っていました。
マムが東京で、節子と同じことをしていたことを。
マムは実家のパパが作ってくれた着物を、せっせと質屋さんに入れていました。
節子の質屋さん通いから80年経った昭和の東京で、マムは数あるサラ金には目もくれず、ハナを抱っこ紐で抱きながら質屋さんへ通っていました。
神さまは、マムの夢を知っていました。
それは特別の夢ではなく、18歳の時から今までしてきたことを続けるという夢です。
もしかしたら、もっとずっと前から漠然と秘めていた夢だったかもしれません。
ただそれを続けることは、あまりお金をもらえないということでした。
25歳の時、一度だけその夢を忘れようと決心したことがありましたが、神さまはマムに続けるように仕向けました。
そしてマムは、二十代の終わりに、出版社から六冊の本を出してもらいました。
18歳から始めたことが、ちょうど10年後に、出版という形でオシゴトになったのです。
マムはお金がなくても平気でした。
質屋さんへ行くことも、嫌だとは思いませんでした。
マムは、着物が流れないように、三か月ごとに質屋さんに通い、毎月7分から9分の利子を三カ月分きちんと払いました。
まとまったお金が入ると質屋さんにお金を返し、着物を家のタンスに戻しました。
神さまはいつもマムから目を離さず、マムを見つめていました。
初めての出版からちょうど10年後、平屋の借家から敷地15坪の小さな家に引っ越す事も、とっくに神さまは知っていました。
そして、それからちょうど10年後に、もう少し大きな家に引っ越すことも。
だって、それは神さまからのプレゼントだったから。
マムはその後の人生の中で、夢を持った若い人に出会うと、必ず言いました。
10年続ければ道は拓ける・・
そういえば、14歳から短歌を作り始めた啄木が、処女歌集『一握の砂』を出版したのも、10年後の24歳の時でした。
東京へ戻る日が近づいたお天気の良い日、マムはいつものようにハナを自転車の前の椅子に乗せて、ハリストス正教会へ向かいました。
いつもの坂道を挟んで、青柳町とは反対側の函館山のふもとにある正教会の辺りは、まるで外国のような風景でした。
マムは、風景の中で一番ぽかぽかしている白くてきれいな石畳に、自転車を停めました。
ひなたぼっこ・・とマムが言って、マムとハナは石に座って遠くをながめました。
いい気持ち・・とマムが言うと、ハナはうなづいて笑いました。
マムは教会をバックにハナを撮りました。
マムが最近知ったことですが、ハリストス正教会の隣には、函館聖ヨハネ教会があります。
マムは写真を撮った場所が、聖ヨハネ教会だったと思うことにしました。
それは、函館の思い出から3年7か月後に長男のソラが生まれた時、聖ヨハネ教会という名前が、マムにとって特別になったからです。
東京に戻る前の日の夜、オネエのお友達が、マムとハナを車に乗せて、函館山まで連れて行ってくれました。
港の形に拡がる夜景は、日本中の噂どおり、とても素敵でした。
きれい・・とマムが言うと、ハナはうなづいて笑いました。
マムはまだ知りませんでしたが、マムのおなかの中には、次女のウミの命が育っていました。
神さまだけが、函館の星空の下の、マムとハナとウミを見つめていました。